気付いてない事に気づいてない事に気付く方法=考える主体を変えること

自分のことしか見えていない人の最大の特徴は、自分のことが見えていないことだ。

「気付いてないことに気付いてない」ことに気づくのは難しい。何故なら気づいてない事に気づいていないから。自分では気付きようがないように思われる。しかし気づく方法はある。それは気づく主体を変える事だ。

例えば歌だったら、歌う主体を俺から、呼吸、脱力、響き、にシフトチェンジする。
俺の都合で俺の歌いたいように歌う、ではなく、より響き、より力を入れず、より深い呼吸に乗るように、響き、呼吸、脱力の都合に、自分の身体や意思を沿わせる。これをやっていると、ある瞬間から、閃きのように、それまで全く思いもつかなかったような声の出し方ができるようになる事がある。なんでそんなことが出来るかというと、響き呼吸脱力は俺ではないからだ。じゃあ何なのかといえば、今のところ、自然現象だと思っている。自分の最も身近な自然現象から教わる発声法、それが鳩山メソッドである。

野菜育てるのも同じだ。いくら俺が作りたいように作る、とか言ったところで、秋に種まきしてもトマトは採れない。野菜の都合に俺を従わせなければ、野菜はできない。
考える主体を俺から野菜にシフトチェンジする事で思考が変わり、ずっと目の前にあったのに、あることに気付かなかった物事、例えば自然の豊かさとかに気づく。これが家庭菜園の醍醐味だと思う。

食べる事も同じだと気付いた。俺が食べる、と言ったところで、味覚は自然現象であり、俺の都合にお構いなく、勝手に現れる。砂糖を舐めるか塩を舐めるかまでは自分で選べるが、砂糖を舐めれば、甘さは避けられない。
しかも同じものを食べても、時によって美味しいと感じたり不味いと感じたり、何も感じないと感じたり。何も感じない、と感じる時は、何を感じてるんだろう?ていうか、なんで食べると味覚が生じるの?そもそも味覚ってなんなんだ?当たり前のようだけど、こんな不思議で面白い事はない。面白すぎて、俺もとうとう「料理研究家」を名乗ることにした。

歌に畑に料理に、色々やってるようだが、やってる事は皆同じで、つまり、気づいてないこと自体に気づいてない事に気付くためのあれこれだ。かっこよく言えば「俺は誰?」と問う事だが、平たく言えば、それが学ぶ、という事かもしれない。だとしたら、学ぶ事は、めちゃくちゃ楽しい。

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